やまの きよつぐ
文筆 : 山野 聖嗣
Antonio YamanoKiyotsugu O.S.A.
聖アウグスティヌスについて
St. Augustine
※元来、洗礼のときに宣教師の国で使用している聖人の
名が与えられいました。
「アウグスティヌス」(ラテン語の語幹)にイタリア語
の語尾がついてSt.Augustinoとなり、日本のカトリック
教会では、昭和の初期に聖アウグスチノ」が洗礼名に
使用するものとして決ちなみに、私ども
アメリカヴィラノヴァ管区日本地区修道会でも、
「アウグスティヌス」ではなく「アウグスチノ」
と使い、「聖アウグスチノ修道会」と呼ばれています。
4世紀も終わりにさしかかった頃に偉大な哲学者にして
神学者、また修辞学者、そして修道者でもあった人物が
登場する。
彼は生涯切に真理を探し求め、イエス・キリストを愛し、
友を愛し、そして、自己の人間的弱さを十分に認識した
アフリカの古代ローマ人であった。
大教父として敬愛されている彼の思想は、彼の時代から
現代に至るまでローマ・カトリック教会に大きな影響を
与えている。
また、彼の残した著作は、キリスト教の中だけに留まらず、
キリスト教と関わりを持たない人々からも愛読され
親しまれている。
それは神から授けられた彼の深い知恵と霊性、
そして彼の著書『告白』にも見られるように自分の過去の
行いや内面の変化をあらいざらい言い表すことのできる、
彼の人間味あふれる純粋で素直な生き方によるのかも
しれない。
アウグスティヌスの育った家庭
アウグスチノ(アウグスティヌス)と言えば、
カトリック教会では彼の母モニカや彼の友
(アリピウス、ポシディウス,恩人(アンブロジウス)
らと同様に、聖人として列聖されていることでも
有名な人物である。
アウグスチノは、354年11月13日に北アフリカの
タガステ(現在のアルジェリア東部)で、地方官庁に
勤める父のパトリチウスと信心深い母のモニカとの
間に長男として誕生した。
キリスト教徒でない彼の父は、この世における名声や
地位、財産を大切にし、息子の出世のためであったら
自分の資力以上の出資も惜しまない人物であった。
父は後に妻モニカの祈りと努力とによって受洗に
至っており、父の母親やアウグスチノも同様に、
彼女を通して神の招きに与かっている。
17歳の時にアウグスチノは、低い家柄の女性と
同棲生活を送るようになり、息子のアデオダトゥスが
生まれている。当時、身分の違う者同士の結婚は
許されてなかったため、アウグスチノは同棲していた
女性と結婚できなかったが、別れた後も生涯彼女の
ことを気に留めていた。
息子のアデオダトゥスは、モニカとアウグスチノの弟
ナウィギウス、そして、アウグスチノの友人である
アリピウスなどと共に、父の回心後にはじまった
共同体で生活し、18歳の時に病死している。
真理を求めて
流行の遊びや成人向きの刺激的な遊びが好きで、
自尊心が高かったアウグスチノは、父母の影響で
立身出世するための教育を受け、勉強は嫌いだった
ものの非常に優れた知性に恵まれていた。
ある時彼は自分の弁舌に磨きをかけて修辞学での
]自分の虚栄心を満たそうと、キケロの
『ホルテンシウス』を読むが、その内容に感動
してしまう。
そして彼は、真の知恵への憧れを持ちはじめる。
目に見えるもの以外にも実在するものがあることを
知った彼は、真理を求めるようになり、善と悪との
二神の神を教えるマニ教へと入信するが、どうしても
そこでは真理を見出すことができなかった。
内面では真理を求めながらも、実生活では就学期を
終えて修辞学の教師であった彼は、ローマを去り、
ミラノで新しい職を得ていた。
回心の涙
ミラノではアンブロジウス司教の説教からその
教えではなく、彼の語る弁論術を学ぶために、
よく説教を聞きに教会に出かけていた。
しかし彼の当の目的とは異なって、彼の心には聖アンブ
ロジウス司教の語る神の真理が入っていった。
そして、彼に劇的な回心が訪れた。
Tolle lege! Tolle lege!(取って読め!取って読め!)
これは、神からの啓示による彼の幻聴であったのか、
実際に誰かが歌っていたのかは定かではない。
しかしこの時、彼は確かにこの子どもの歌声を
聞いて、決定的な回心を遂げている。
彼は心を満たしてくれる何かを探し求め、
この時までに何度も悩み苦しんだ。
回心への兆しはあったものの、彼はこの決定的な
回心に至ることはできなかったのである。
そして、歌声を聞いた彼は、その意味も分からず、
とにかく聖書を開き、最初に目がいった箇所を
読んだ。
そこには「酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いと
ねたみを捨て、主イエス・キリストを身にまといな
さい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いて
はなりません」(ロマ13:13−14)とあった。
これまでこれらのことに心が囚らわれていた彼は、
神の限りない慈しみによって心が解き放たれて
回心の涙を流した。
この時にはもう、彼の心はこの世的な事柄よりも
イエス・キリストからしか得られることのない
真理を求めるに至っていたのである。
回心後に彼はアンブロジウス司教から洗礼を受けて、
マニ教から改宗し、身内や友人たちと共に
修道生活に似た観想生活をはじめている。
そんなある日、ヒッポという港町の司教座聖堂で
祭儀に参加していたアウグスチノは、哲学者として
の名が知られていたために、そこの一団の信者たち
によって突然司祭になるように求められ、
ヴァレリウス司教の前に連れて行かれた。
彼は大いに困惑しながらも神の慈しみに感激し、
その場で司教から叙階されている
(このようなことは、当時別に珍しいことでは
なかった。
そして5年後には、彼はヒッポの司教となり、
素晴らしい業績を残した。
アウグスティヌスの活動と友愛
彼は、哲学者、また修辞学者としての才能を大いに
活かして、異端者やキリスト教を非難する者を
ことごとく説き伏せた。時には、アウグスチノが以前に
言った言葉を用いて反論してくる相手もいた。
そういう相手に対しては、彼は以前に自分が言った
言葉をうまく否定しながらも相手を説き伏せてし
まうほどの高度な弁論技術を有していたから問題は
なかった。
執筆活動においては、神、聖書、人間などの多方面に
おいて、彼独自の思想を展開し、美しいラテン語の
文書表現で多くの解釈や注解を著し、後のキリスト教の
歩みに決定的な影響を与える大きな業績を残している。
例えば、霊性の面で彼は、真理への唯一の道を歩む
ために、キリストが柔和で謙遜であったように
「一に謙遜、二に謙遜、三にも謙遜」
(『書簡集』118・22)
でなければならないことを述べている。
アウグスチノが苦しみや悲しみの中にあった時、
実際に彼を本来の自己へと立ち戻らせ、力を回復させて
くれたのは、いつも友人の励ましであった。
彼のそばには常に友がいた。彼は、梨を泥棒した時も
マニ教への入信の時やキリスト教への改宗の時なども
友人と共にそれを行い、後悔し励ましあって生きた。
そして、回心後の共同生活や、司教になってからは
司教館の庭に修道院を設けて司祭たちの共同体を
住まわせるなど、全てを友人と共に行ったのである。
彼は『告白』(4・8・13)の中でこんな記述を
行っている。
「友人たちとの関わりの中には、私の心を引くものが
ありました。
私たちは、共に語らい、冗談を言いあい、互いに親切に
しあい、善い本を一緒に読んで、ちょっとした事柄でも
真面目な事柄でも分かちあいました。
互いの意見の相違があっても、さも自分自身の中での
自分の意見どうしが討論するかのように、相手に
憎しみを抱かないように気をつけました。
これは、互いの調和を深めることになりました。
様々な事柄を教えあい、学びあいました。
友人たちがいなければいらだたしさを感じ、
戻ってくれば喜びを感じました。
このように彼は、愛する友人たちと共に神の愛の中で
その人生を生きたのでる。
死を迎える時でさえも友人であるポシディウスに
みとられながら天国へと旅だっている現代、8月28日は
アウグスチノの祝日、前日の27日は母モニカの祝日と
なっている。
聖アウグスチノ修道会の誕生
アウグスチノは、エジプトの砂漠で隠遁生活を行った
聖アントニオ修道院長の生き方に影響を受け、回心後に
友人らと共に共同生活を送った。
この共同体は、後に多くの人が司教にあげられたり、
亡くなったりして消滅している。
しかし、聖アウグスチノが共同体のために作った規則
(会則)は伝承され、この規則に従って、いたる所で
共同生活を営む集団が存在していた。
中世において、この規則に従って生活する共同体は、
大きく5つのグループに分けられるようになっていた。
やがて、これらのグループの中に一致を望む気運が
高まり、これに応える形で、1243年に教皇
インノチェントW世はこれらのグループに対して、
正式に聖アウグスチノの会則と生き方の模範の下に
一つになるように呼びかけ、翌1244年に一致が
実現した。
ここに活動と観想生活の両面を持つ聖アウグスチノ
修道会が誕生したのである。
さらに、1255年に教皇アレキサンデルW世により、
聖アウグスチノや聖ベネディクトの会則に従う
いくつかの隠修士のグループに対し、すでに成立した
聖アウグスチノ修道会と1つになるようにという
呼びかけがなされて、1256年に各共同体の代表者
による会議をもって、教会の司牧のニーズによりよく
応えるための大合併が実現したのである。
このような成立の背景を有するアウグスチノ会は、
ドミニコ会やフランシスコ会、カルメル会と並ぶ托鉢会
として知られ、全ヨーロッパに急速に広まり、後に
創立されるイエズス会とその会員数を競うほどまでに
発展している。
女子修道会は少し遅れて聖アウグスチノ「第二会」
あるいは「第三会」という形で創立している。
「第三会」に属する者の多くは修道生活ではなく、
普通の家庭生活の中でアウグスチノの精神を生きている。
アウグスチノ会からは、ヴィラノヴァの聖トマスや
カシアの聖リタなどをはじめとする多くの聖人や福者、
そして生物学者で遺伝の法則を発見したことで有名な
メンデルなどの学者も輩出している。
ちなみに宗教改革で知られ、荒廃するカトリック教会に
対して、刷新を叫んだルターもアウグスチノ会の
司祭であった。
日本には、1584年に初のアウグスチノ会の宣教師が
上陸している。
そして迫害時代には、アウグスチノ第三会員の殉教者が
数百人にも及んでいる。
現在では東京、横浜、名古屋、福岡、長崎で男子の会員が、
学校教育や教会の司牧活動、及び宣教活動を行っている。
アウグスチノの会則は、アウグスチノ会だけでなく、
ドミニコ会や聖母被昇天修道女会、メリノ−ル
女子修道会など多くの男女修道会によって取り入れられ、
それらの会は、現在に至るまでアウグスチノ会の
兄弟姉妹と相通じる精神で生活をしている。
聖アウグスチノの残した著作
アウグスチノは、『独白』『真の宗教について』
『告白』
『キリスト教の教義について』
『修道者のわざについて』
『三位一体論』『神の国』
『キリスト教の恵みと原罪について』
『恩恵と自由意志について』
『聖アウグスチノの会則』
『ヨハネ福音書注解』
などの説教集など多くの著作を残した。
また世界中で、アウグスチノについて書かれる文献は、
毎年約300冊にも及ぶと言われている。
聖モニカ カトリック港教会
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